想い出

祖母の思い出

torenia

たぶん今日は、祖母の命日。

あまりおばあちゃん孝行をしなかった孫娘は、秋のお彼岸のころだったということしか覚えていない。


明治生まれの祖母。大正期には、はいからさんみたいな女学生時代を過ごし、東京の文化服装学院で学んだという、とってもおしゃれ好きなひとだった。

ちょっとしたお出かけのときは、ちゃちゃっと着物を来て出かけるのもかっこよかった。

90で亡くなるまで、お化粧も欠かさず。


今は廃盤になってしまったヘレナルビンスタインのハニーローションが大のお気に入りで、祖母の四畳半の部屋の鏡台にはいつも、ハニーショーションが置かれていた。

小さいころから見慣れていたそのローションが、デパートでしか買えない外資ブランドのものだと知ったとき、いったいどうやって手に入れていたんだろうと不思議に思った。今と違ってネットで買うこともできない時代、田舎では到底手に入らない。

なんと、日本橋三越から取り寄せていたという筋金入りのヘビーユーザー。



8人の子に恵まれたけれど、戦時中に5人亡くして。お墓参りに行くたびに、墓石もない場所に、〇〇ちゃんに〇〇ちゃん。。。と、5人の名前を口にしながらお線香とお花を供える姿をよく覚えてる。
私のことを器量が悪いとよく言っていた。器量が悪いんだから、愛嬌がないといけない、勉強くらいできないといけないと、よく言われていたっけ。

母と折り合いが悪くて、嫁姑の仲はいつも険悪だった。どうしても母の味方をしたい私は、ついつい祖母にきつく当たってしまうこともあった。




祖父と一緒に、地元密着の仕事でずっと働いていたせいで顔が広く、おばあちゃんになってからも、

「奥さん、野菜持ってきたよ~」

と、男女問わずいろんな人が、野菜やお菓子、旅行に行ったお土産などを差し入に来てくれてた。だから、実家の縁側は、いつもお客さんが絶えなかった。
歌が好きで、今でいうカラオケや民謡サークルみたいなものを立ち上げたりして、いつも仲間に囲まれていた。

「私が死んだら、歌で送ってね」と、仲間にお願いしていたらしく、告別式ではおばあちゃん仲間が歌う「赤とんぼ」で見送られていった。

 

亡くなる数日前には、少し離れた土地に住む妹を呼びつけ、お別れの挨拶をしたという。同じように、近所の仲良し数人にも。

そのお別れのあとほどなくして、ほんとうに亡くなったのも、祖母らしい。


頑固な祖父を、「まったく、明治の男はこれだから」とよく愚痴っていたけれど、そういう祖母も、立派な明治の女だ。


今おもえば、個性的な、素敵な女性だったなってしみじみ思う。
自信家で気が強くて。社交的で物怖じしなくて。色白で巨乳で。

私が持っていない部分をたくさん持ってる人だった。あのひとの血が入っているんだから、少しは私にも、素質らしきものがあるに違いない。

 


読書好きで、小説が大好きだった祖母。学生時代に帰省したとき、祖母は、マディソン郡の橋を読んでいた。

「たった一週間でも、こんな素敵な恋ができるのね」

と、瞳を輝かせていた祖母の顔が、昨日のことのように鮮明に残ってる。

 

そんな祖母だから、自分勝手な孫娘のことも、きっとダメ出ししながら見守ってくれている。調子よくそう思っておこう。

こんなに思い出したということは、やっぱり今日が命日だ。